赤線について

赤線という言葉を聞いたことはあるでしょうか
なんとなく「昔の風俗街のこと」という認識の方も多いと思います

この記事では赤線について歴史背景などを交えながら
少しだけほじくって解説しようと思います

遊郭とは

まず、風俗に関する歴史をさかのぼります

室町時代(1336~)には既に「公認された売春業」が存在していたともされますが
安土桃山時代(1573~)に豊臣秀吉が大阪や京都に遊女を集めたことが
『遊郭』の起源だとされています



江戸時代(1603~)になると江戸幕府によって
全国に遊郭が設けられました

幕府に公認された遊郭は
 江戸の吉原遊郭
 京都の島原遊郭
 大坂の新町遊郭
などが挙げられ、三大遊郭と呼ばれています

また、非公認な遊郭のことを『岡場所』とも言います

遊郭とは簡単に言うと売春街です
遊女(風俗嬢)と呼ばれる女性と色んなことをする遊女屋(風俗店)を
一区画に集めたのが遊郭(風俗街)です


『花街』とも呼ばれていますが、少しだけ意味合いが変わり
 花街=芸妓が宴席で芸を披露する場所
 遊郭=娼妓が春を売る場所
と、一般的には区別されます

でも実際の営業状態は似たり寄ったりだったとも言われています

遊郭の終焉

明治時代(1868~)に入り遊女屋に関する規制などが強まりますが
遊郭は郊外へ移転をしたり、名前や業態を変えながらもまだ存続します
「貸座敷」や「料亭」などと名乗り接客を続けるわけです

現在でも「風呂屋」として実質的に売春が行われるソープランドが存在するのと同じ要領です



大正時代(1912~)には、より一層と取り締まりが強化され
さすがの吉原遊郭も衰退し始めます

そして昭和時代(1926~)になると
戦後1946年 GHQによる公娼制度の廃止令によって
遊郭の公娼制度は廃止されました

赤線の始まり

遊郭の公娼制度は廃止されましたが
売春自体は黙認され『特殊飲食店』という名目で営業されました

このエリアを警察が取り締まる際に赤い線で囲っていたことから
『赤線』と呼ばれるようになりました

東京では
吉原(台東区)、玉ノ井(墨田区)、鳩の街(墨田区)、洲崎(江東区)、立石(葛飾区)
などが有名です

全国にも大小様々な規模で赤線は数多くあり
飛田遊郭(大阪)、熱海糸川(静岡)、大宮北銀座(埼玉)
などが存在しました


この黙認されたエリア『赤線』に対して
完全非合法で営業していたエリアのことを『青線』と呼びます

尼崎(兵庫)、新宿(東京)、池袋(東京)、堀之内(神奈川)
など、現在でもソープランドが残るような地名が目立ちます

赤線の終焉


1956年に制定された売春禁止法が

1958年に完全施工されたことで

全国の赤線は次々と廃業し、終焉を迎えます

この時点で公認されていた施設は3万9000件といわれており

廃業となりました

(それに伴い青線も衰退していきます)

そこで働いていた遊女など従業員達はどうなるのでしょうか


赤線のその後

廃業した赤線の多くは「バー」や「スナック」など「飲食店」へと転向しました
「旅館」「浴場」「下宿屋」「ラブホテル」などへの転向も多く見られます


このように名目上では業態を変えましたが
実際は密かに性接待業を続けるところも多かったようです


そして現在も
「風呂屋」というソープランドや
「料亭」という名目で自由恋愛をする場所など
様々な業態変化をしながら風俗文化は続いています

歴史を見れば分かるように
規制→業態変更→黙認→規制
を繰り返しています

きっと永遠に続くものだと思います

赤線跡

現在にも残る赤線跡(青線跡)についてですが
そのまま風俗街として現存するエリアや
飲食店街として残るエリアもあれば、
普通の住宅街になっているエリアや
再開発のビル群により完全に消滅したエリアもあります


吉原

吉原(赤線からそのまま風俗街)
吉原(赤線からそのまま風俗街)
吉原(赤線からそのまま風俗街)



ゴールデン街

青線跡であり闇市跡でもあるディープな「新宿ゴールデン街」
観光スポット的な飲み屋街として賑わっています



近くの商店街や通りの飲食店街に
どんな歴史があるのか気になってきませんか?


歴史には諸説あり、確実なことなど存在しませんが
街のことを色々と調べたり
現地の人から話を聞いたりすると
いつもの場所が違って見えてくる楽しさがあります











この記事をSNSでシェア
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次